本の最終ページを読み終え表紙を閉じるとき、その満足感は、
親しき友と久し振りに、時間を忘れ語り合った充実感に似て、
やがて安堵と平穏で満たされた気持ちとシンクロし快い余韻
の糸を紡ぐ。
しかし、時にそれは裏切りに変貌することがある。
書店で本を求め、読み進めるにつれ、素敵な表紙と
題字がやがて幻滅の一途をたどる。拙い文章、何の魅力も
感じられない表現、挙句の果ては何度読み返してもその情景
が汲み取れない幼稚な構成、そして最終ページへ。作者は私に
何を訴え、何を感じてほしかったのだろうか?私は書物を売る
ことを業(なりわい)としているが、文章を書くことは読む
こととちがって一筋縄ではいかないことは理解している。
それにたいした文章力も持ち合わせていないことを一筆付け
加えて自分の稚拙な文章能力は棚に上げさせていただく、
悪しからず。また書物はよく友に例えられる。
一生の友(座右の銘)に成り得る素晴らしい書誌もあれば
その刹那、その場だけの付き合いだけで終わってしまう書もある。
冊数は少なくても自分の書棚に“座右の銘”が並んでいることは、
人生の岐路に立った時、心強い羅針盤となり得るだろう。ちなみ
に現代のように、経済的にも精神的にも不安定な時代、論語がよ
く読まれる。私の小さなお店にもいろんな「論語」が並んでいる。
論語にかかわらず書物は、読む年齢、心境によっても深く共感す
る場合もあれば上っ面だけを読み、理解したつもりになることだ
ってある。それゆえ、音楽と同じように自分の青春時代のテーマ
ソングのように熱い気持ちでいっきにその時代にタイムスリップ
してみたり、人生の麻疹にかかった当時読んだ本を読み返すと何
だか苦い、思い返し難い気持ちになり気が沈む物語もある。
学生時代、友人の本棚を見るのが好きであった。当時、地方出身
者は東京の小さなアパートにも、お気に入りの本をみかん箱1箱
ぐらいは持って上京したように思う。当時、時間を弄ぶほど所有
していた文系の私などは、日に日に棚は本で埋まっていった。
大半は文庫本であったが、三島とか太宰、坂口安吾など自分と
同じ系統の背表紙をみると一気に親近感が増した。
ましてやその棚に読んだことのあるタイトルを発見でもする
ものなら、そっとその本を抜き、ページをめくりながら、
ありったけのその作家の知識、蘊蓄をのたまうのである。
また、時に意外な本を見つけると、その友が自分の思い描い
ていたキャラとはちがった一面を再発見し認識を変えたこと
もあったように思う。ある時、東北の訛がほとんど抜けて
ない色白の友人が、少し酒がまわった調子にヘミングウェイを
語った時は、キューバとスペインのイメージしか持ち合わせて
いない私にとってはカルチャーショックで翌日、本屋でヘミン
グウェイを買い込んで真剣に読んだこともあった。次の居酒屋
討論会の準備のために。それがやがてヘミングウェイが好きに
なり本屋になるきっかけにもなるわけだが。私の本にまつわる
徒然なるエピソードを書きなぐったが、近い将来、もし店を
閉じるなり、人生を終えるなり、最終ページを閉じる時、
充実感で満たされた人生の表紙の閉じ方をしたいものだ。
そのためには、自分にウソをつかず、全身全霊をささげ
言霊(ことだま)が満ちあふれた書籍を悔いの残さぬよう
販売していきたいものだ。好きで27歳で始めた業(なりわい)
ではあるが、時勢に流されない、次の章につながるよう最終
ページをかみしめながら読みたいものだ。生まれ育った場所で。
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